ドイツゴサイコウ

ドイツ語の仕組みについて再考するブログ

ドイツ人にならなくてもいい

 

昨日は、私がドイツで体験した挫折にフォーカスしてお話ししてきましたが、今日はそれから今日までの考え方の遷移と、きっかけになった経験、今思うことについて書いていこうと思います。私の結論は、ドイツ人にはならなくてもいい、ということです。非母語話者として、ドイツ語を完璧にできる必要なんてありません。

 

歴史学から言語学に転科した時、 外国語としてドイツ語を話す学習者への理解度の高さに驚きました。先生たちも皆、自ら英語という外国語を扱い、やるせなさを経験したことのある人たちで。個人差さえあれど、大抵の先生はあくまで言葉という普段なら判断の対象になるものを客観的に捉えて、外国人の話す言葉の特徴をつかむことにフォーカスしていて。言語学で一番叫ばれているのが、人の言葉を判断しない、ということなのですが、学習者のドイツ語を、「悪い・レベルが低い」とは間違っても言わないで、客観性を重んじる。こんな空気があるから、すごく過ごしやすく感じたのだと思います。

 

最初に通った一年生向けの入門クラスでは文法がテーマだったこともあり、大学で初めてドイツ人学生より優位な立場に立つという経験もしました。これが、自信を取り戻すきっかけになったのですが。言語学は、歴史や生物・化学などその他様々な専攻と違って、大学の勉強を開始する時期には専門的な知識が必要とされないというメリットがあります。そういうわけで、みんな同じ位置でスタートラインに立てる、むしろドイツ語の知識という少しのおまけまでついてくるというのは、ものすごくありがたかったです。

ただ、口頭発表やテストはやっぱりボロボロだったりして、心も荒んだりもしました。それでも、手も足も出なかった歴史学とは全く違ったし、課題をこなすうちに確実に進歩を実感できたのは大きかったです。一度、教授にフィードバックを求めたら、「ドイツ語上手ね」、と言われたこともあります。ほんとは、内容についてのコメントが欲しかったのですが…。ドイツの大学での生活に慣れることができたのは、副教科の日本学の先生たちがかわいがってくれたこと、同級生がたくさんできて孤立しなかったことの力も大きいです。

 

言語学に目覚めた私は、そのうち大学の研究アシスタントとして働き始めました。これが、人生の大きな転機になりました。正直、最初は採用された意味すら分かりませんでした。というのも、母語話者じゃない以上、こなせる課題にはどう頑張っても限界があるから。仕事で書くメールの文面もなんか変なんだろうなあと思ったり、マニュアルを制作しても、言葉が変すぎるだろうなと思ったり。覚えないといけない単語も多くて、頭がパンクしそうになったり。

でも、私が職場で出会ったのは世界一優しい人たちだった気がします。今の同僚は、いろんなことを辛抱強く教えてくれて、私の言葉を馬鹿にすることもありませんでした。彼らには、とにかく、外国人と働くことに理解があったのです。ドイツにはこんな感じで理解のある人たちがたくさんいると思っています(これに関しては賛否両論あるかもしれませんね)。

一度言葉ができないと思うと、無意識のうちに自分を虐げる癖ができてしまいますが、実際に外国人である私たちに完璧を求めてくる人たちは案外少ないのです。最初の頃は、外の人扱いされるのがいやで、それすら否定してきました。でも、彼らがドイツ語の完璧さを期待しないというのは別に見下しているからではなく、私たちが、外国で母語でない言葉を話しながら勉強する・働くという行為の特殊性を知っているからだということが最近わかってきました。完璧を求めて、自分を落とし続けているのは、私だったのです。

 

何度か、母語話者じゃない同僚がいて大変じゃないのか、と聞いたことがあります。そのたびに返ってくるのは、本当によくやっているというフィードバックでした。一番よくしてくれた先輩がロシア出身だったから、文化の違いについても、言葉の壁についても、いろいろ聞く機会があったのはラッキーでした。大学界隈だと特に国際化が進んでいて、外国人の同僚がいるのなんてごく普通のことという認識があるし、そもそもの前提が違う事実を目の当たりにした感じです。もちろん外国人に慣れていない環境も多いだろうし、だからこそ運がよかったと思ったりもするのですが。

 

こんな漠然とした考えをずっと頭の中で温め続けてきた中で、去年の夏知り合った言葉があります。それは、"Mehrsprachigkeit ist kein Defizit"というものです。意味としては、「多言語を話せるということは欠点ではない」といった感じで、ドイツ語が不完全だからといって無価値なわけがないし、それを「欠陥」としてとらえる必要はない、という言葉です。もともとは、ドイツでドイツ語を第二外国語として習得していく移民の子供たちに向けたものですが、私たちのように大人になってから外国に来た人にも十分当てはまる言葉です。

私たち日本人がドイツ語を使っていくうえで決して忘れてはいけないのは、日本語という母語があることです。たとえドイツ語の母語話者のようになれなくても、日独両言語を組み合わせることで無限の可能性が生まれます。大事なのは、母語話者になれないからといって、ふてくされてあきらめるのではなく、自分に手を出せそうな分野を見つけて、自ら可能性を切り開いていく強さだと思います。失敗なんて誰にでもあるのだし、周りも結局私たちが母語話者になることは求めていないからです。

ドイツ語で変な言い間違いをしたらおもしろいなーって思うくらいでいいし、緊張して言葉に詰まったら、勝手に言語学の研究をしてる気分になってもいいし。話せない場面と話せる場面を観察してまとめてみるとか、自己嫌悪を避けるのに役立つ回避方法もいろいろあります。自分のドイツ語について思うことを一言言葉にして伝えるだけで、周りも理解してくれることも多いです。ほかの外国語を勉強するときに似たような経験をした人も多いので、外国語あるあるはパーティーなんかで使える定番ネタですよ(笑)。

 

ことあるごとに、自分のドイツ語力に悩んで、大学、仕事、周りの母語話者と比べてできないところばかりが目に付く気持ちもすごくわかります。他の学習者もみんな自分よりずっと進んでいるように見えるし、そのうち自己否定が強くなって、まともに言葉すら扱えない外国人の私なんか雇うところなんてあるわけないと疑心暗鬼に陥ったり。

でも、一番大切なのは、外国語を使いながら、全く違う土俵に立って戦うことのすごさを忘れないことだと思っています。今まで身に着けてきたものや成功してきたことはすぐに忘れてしまうのに、無いものばかりが目に付いて凹み続けてても、もったいないと思います。もちろん、進化し続けようという気持ちも、それに伴う努力もとても大事なことだけど、ドイツ語の母語話者ではない自分を責める必要はゼロなのです。

 

これが、今の私のドイツ語に対する結論で、今ではドイツ人はならなくてもいいや、と思っています。日本語を母語として操れる自分が好きだし、日本語だけではなくドイツ語まで話して。大学で勉強して、働いて。これ以上何かを望むのは、自分を低く見すぎ、と思うのです。

言葉の壁はなかなか高いですが、超えられない壁があってもいいし、それをうまく回避する方法を見つけたり築き上げたりする方が大切ですね。それには、過去に目標にしていたことを振り返るのを忘れないようにするのが役に立ちます。数年前に取ったノートや昔書いたメールを見返してみるだけハッとすることも多いので、おすすめです。それだけでも、今の進化に気付くはずです。

 

私事ですが、今日で渡独してきてからちょうど5年が経ちました。今回は、今までとは少し毛色の違う日記のような記事になりましたが、それが理由です。

6年目のドイツ生活がどんなものになるのか、今からワクワクしています。今の願いは、早くウイルスの勢いが落ち着くことと、またいつかみんなで集まってお祝いできる日が来るようになること。皆さんもどうか体にはお気をつけて。

 

それではまた☺

 

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